北口本宮冨士浅間神社

北口本宮冨士浅間神社は、富士山吉田口登山道の起点に鎮座する。伝承では、日本武尊が東征の折に富士山を遥拝した旧跡「大塚丘」に小祠を建てたのが始まりで、延暦七年(七八八年)に社殿が現在地に建てられたと伝わる。史料で確かめられる最初の記録は、文明十二年(一四八〇年)の鳥居建立である。

境内は、もとは「諏訪の森」だった。ここに祀られる諏訪明神は、古くは吉田の地主神として人々に崇められていた。富士信仰が盛んになるにつれて、浅間神社の方が栄えるようになったという。毎年八月二十六・二十七日の「吉田の火祭り」(鎮火大祭)も、もとは諏訪神社の祭礼で、そこに富士の火を鎮める信仰が結びついた。当日は町の通りに高さ約三メートルの「たけまつ(筍形に組んだ松明)」が立ち並び、日暮れとともに一斉に火が入る。浅間神社の神輿「明神さん」と、富士山をかたどった諏訪神社の神輿「お山さん(御影)」が渡御し、この祭りで夏山シーズンが終わる。日本三奇祭の一つに数えられる祭りである。

現在の本殿は、元和九年(一六二三年)に甲斐・郡内領主の鳥居成次が再建したものだ。享保十八年(一七三三年)から元文三年(一七三八年)にかけては、富士講の指導者・村上光清が私財を投じ、本殿と拝殿を修復したうえ、幣殿、随神門、神楽殿まで造営した。一間社入母屋造りで、漆塗りに極彩色、精巧な彫刻を施した本殿は、国の重要文化財に指定されている。領主の再建のあと、社殿を大きく整えたのは富士講を率いた一人の指導者だった。江戸時代の富士信仰で、庶民の力がどれほど大きかったかがうかがえる。

富士講が関東一円に広まった江戸時代、この神社は大いに栄えた。文化年間(一八〇〇年代初頭)の記録では、吉田口から登る人は年に約八千人で、駿河側の三つの登山口を合わせた数とほぼ同じだったという。門前の御師街には、代々宿坊を営む御師が住んでいた。御師たちは「檀那場(だんなば)」と呼ばれる受け持ちの地域を関東各地に持ち、農閑期にはそこを回って講員に神札を配った(旦那回り)。有力御師の小沢家は、一軒で一万六千軒以上の檀那(契約家庭)を抱えていたという記録が残る。

境内入口の大鳥居は、六十年ごとの庚申年に建て替えるという独自の習わしを持つ。大鳥居に掲げられた「三國第一山」の扁額は、谷村城主秋元氏の寄進による。白装束の道者たちは、この鳥居をくぐって山頂への長い道を歩き始めた。神社の鳥居であると同時に、富士山への入口でもあったことになる。

吉田のこの繁栄には、駿河の大宮(富士山本宮浅間大社)との争いがからんでいる。安永八年(一七七九年)の幕府の裁許で、富士山の八合目から上は大宮の境内地と定まった。それでも、登山者の数では吉田口が大宮をしのいでいた。制度の上では大宮が支配し、経済の実権は吉田側が握るというねじれた関係は、その後も続いた。

杉の巨木に囲まれた参道の先に桃山様式の華やかな社殿があり、本殿の脇から吉田口登山道が始まる。二〇一三年、「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産として世界文化遺産に登録された。