大鏡坊墓所及び大鏡坊跡地
村山三坊の一つ、大鏡坊の墓所と跡地である。
大鏡坊は、般若上人頼尊を開基と仰ぐ修験の坊である。『富士大宮司系図』には、康永四年(一三四五年)に没した大宮司・富士直時の従弟として頼尊の名があり、「富士正別当 村山三坊等ノ祖」と註記されている。ただし大鏡坊に伝わる系図については、氏姓の記し方が一定せず信をおくには不十分とする見方もあり(『浅間神社の歴史』)、頼尊の事績には伝承の部分が多い。
大鏡坊は、文明十年(一四七八年)三月の銘をもつ村山浅間神社の木造大日如来坐像(金剛界)に「寺務大鏡坊成久」として名が見え、このころ村山修験を率いる「寺務」の立場にあった。造像に際しては工房も提供したとみられる。『浅間神社の歴史』によれば、成久は大宮司富士忠時の兄で、長禄四年(一四六〇年)に大鏡坊を継いで般若院と号し、文明十年に社頭を修理して本尊の大日像を造立した。戦国時代の頼慶は、永禄元年(一五五八年)に今川氏真から、慶覚坊の跡を継いで駿河・遠江両国の山伏を支配するよう命じられ、同じ日に富士大宮の山宮太夫職も与えられた。頼慶の妻は、大宮司富士信忠の娘であった。三坊のうち大鏡坊は、村山修験の開祖・末代上人を祀る大棟梁権現の別当を務めた。寛永十八年(一六四一年)には、徳川家光から二十六石五斗の朱印地を与えられている。檀那場(信者圏)は遠く大坂にまで及んだ。『浅間神社の歴史』は、村山三坊が管理した山頂(今の浅間大社奥宮の地)の大日堂を、明和三年(一七六六年)に建てたのは大鏡坊の檀那である大坂唐物町の蓮久だったと記している。
明治の神仏分離と修験道の禁止により、大鏡坊は廃絶した。大正十二年(一九二三年)の「村山浅間神社昇格願」によれば、坊の家は明治の神仏分離のさいに本山派修験をやめて村山浅間神社の職に転じ、「富士大鏡」と名を改めた。坊に伝わった文書は「旧大鏡坊富士氏文書」として残る。坊のあった場所は現在農地となり、往時の面影を残さない。
集落はずれの小高い丘に墓所が残る。墓標群の中には、慶安二年(一六四九年)七月に建てられた頼尊の供養碑があり、「当山之開山 大僧都頼尊」と刻まれている。














