宝幢院跡地
宝幢院は、富士山本宮浅間大社の別当寺として大宮(現在の富士宮市街地)に置かれた真言宗寺院である。
中興とされる増円は、天文二十年(一五五一)に今川義元から護摩領の寄進を受け、武田氏が駿河を治めると別当に任じられた。天正六年(一五七八)に武田勝頼が与えた定書には、駿河の真言宗の諸大坊が集まって祈念するとき、宝幢院を上座とすることが定められており、駿河の真言宗の中で重んじられていた寺だったことがわかる。天正から寛永のはじめにかけての別当は記録に乏しいが、このころ別当を務めたとみられる元雅は、鎌倉の鶴岡八幡宮寺で供僧の海光院を中興し、のちに出羽や常陸の大寺にも住した学僧だった(『鶴岡八幡宮寺供僧次第』)。
江戸時代の浅間大社では、神職の長が大宮司、次官が公文と案主で、社僧の長が別当であった。幕府の定めにより、社務は大宮司・別当・公文・案主の「四家」の合議で行われ、別当は社僧の棟梁として大宮司と並ぶ立場とされた。浅間大神が浅間大菩薩として崇められた時代、その祭祀には仏教の法会が欠かせず、宝幢院はその仏事を担った。寛永十八年(一六四一)には徳川家光から百三十六石余の寺領の朱印状を受け、以後も代々の将軍から寺領を安堵されている。江戸時代の後期には、大宮郷などの生まれで、大宮司家の菩提寺・寶積寺の住職を経て別当になる僧が続いた。
最後の別当・見晃は阿波国の出身で、高野山で学び、文久二年(一八六二)に別当となった。明治元年(一八六八)の神仏分離で、この体制は大きく変わる。見晃は駿府に着いた東征大総督の有栖川宮に金五十両を献じ、京都で復飾を願い出て、還俗して「富士神一郎」と名を改め、大神主を称した。供僧たちも還俗し、清泰院は清泰大次郎と名乗るなどした。こうして寺院としての宝幢院は廃絶し、浅間大社の長い神仏習合の時代は終わった。
跡地に堂宇は残らず、現在は柵で囲まれた空き地となっている。

