山中湖

富士山の東麓に広がる山中湖は、富士五湖のうち最大の湖である。湖面から望む富士は、季節と時刻によって姿を変える。「富士五湖」という呼び名は、明治以後に富士登山とあわせて遊覧が流行してからのもので、古い記録には見当たらないという(『富士の歴史』)。

この湖の成り立ちは、富士山の噴火と結びついている。富士山の溶岩が忍野の西方をせき止めてできた大きな湖「宇津湖」は、いまの山中湖全体と、その北の忍野村や梨ヶ原の一部にまたがっていたと考えられている。

富士講の修行には、山麓の八つの湖沼を巡って水行を行う「内八海巡り」の巡礼習俗があり、山中湖もその一つであった。江戸から富士を目指した講中の行者たちは、湖水に身を浸して水垢離を取り、六根を清浄にしてから登山道へと向かった。

湖のほとりは、甲斐と駿河を結ぶ道筋でもあった。戦国時代には、甲斐の黒駒から御坂峠を越えて河口・船津・吉田に至り、さらに山中・籠坂を過ぎて須走へ出る道が、両国を結ぶ往還だった。明治のはじめにも、山中は駿河へ向かう往還の宿駅として記録に見える。

湖の鯉や鮒、鰻などは、江戸時代には湖畔の村人がおもに自分たちで食べるために獲っていた。明治十六年(一八八三年)の物産表でも、湖の漁獲で比較的多い村として挙がるのは、山中湖畔の中野村の二百九十円ほどである。大正のはじめには、河口湖・山中湖・西湖で鱒の孵化が試みられている。また、明治三十二年(一八九九年)八月一日に田中阿歌麻呂がこの湖で測深の錘を下ろしたことが、日本の湖沼学の始まりとされる。

山中湖は世界文化遺産「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産である。