扶桑教元祠
富士吉田市上吉田に鎮座する扶桑教の元祠。写真は八月の還幸祭に参加した際の模様で、白装束の行者たちが杉並木の参道を行列し、素木造の社殿での神事に臨んでいる。
扶桑教は、富士講の流れをくむ神道の教団である。明治維新ののち、神仏の分離が進むなかで、吉田口の御師たちが富士講の行く末を宍野半に相談したことが設立のきっかけになったという。明治六年(一八七三年)九月一日に山梨県を通じて願い出て、同月十八日に「富士一山講社」として設立が許され、明治八年に富士一山教会、まもなく扶桑教会と名を改め、明治十五年(一八八二年)に「神道扶桑教」として一派独立し、神道十三派の一つとなった。
創始者の宍野半は、薩摩国薩摩郡隈元城村の郷士の家に生まれ、平田鉄胤の門に入って国学と神道を学んだ。明治五年に教部省に出仕し、のちに富士山本宮浅間大社の宮司となり、上吉田の富士嶽神社(北口本宮冨士浅間神社)や河口の浅間神社などの祠官も兼ねた。明治七年には山頂の大日堂が浅間大神を祀る奥宮に改められ、明治八年には薬師ヶ嶽を久須志嶽とするなど、山中の仏教的な地名の改称が内務省に認められている。
明治九年(一八七六年)、宍野は浅間大社の宮司を辞し、扶桑教会の社長として、浅間大社から山頂の金明水の横に百坪の土地を借り受けた。そこに建てられたのが、造化大神を拝する「天拝所」である。扶桑教は信仰の中心を造化三神に置いている。
宍野は明治十六年(一八八三年)七月二十六日、富士山頂で扶桑教の初代管長としての報告祭を行ったが、翌十七年五月十二日、四十一歳で亡くなった。跡を継いだ子はまだ八歳で、しばらくは神宮教の管長・田中頼庸が教務を預かった。扶桑教は桜の花を教えのしるしとし、春と秋の大祭を皇霊祭の日に行った。
杉木立の参道を、白装束の行者の列が進んでいく。







