池西坊跡地

村山三坊の一つ、池西坊の跡地である。

池西坊は伊勢国司・北畠氏の血を引くと伝えられる修験の坊で、康暦二年(一三八〇年)に存誉上人が開いたという記録も残る。村山三坊のうち、富士山興法寺の中心施設である大日堂の別当を務めた。

池西坊の名が文献に初めて見えるのは、天文二十年(一五五一年)に今川義元が三如坊に宛てた安堵状である。その末尾には、先例どおり池清坊(池西坊)の意見に従うよう書き添えられており、実権は池西坊にあったとみられる。この文書は、池西坊の分家・北畠家に伝わった。池西坊には聖護院門跡の文書や今川義元・氏真父子の朱印状なども伝わり、戦国時代にはすでに聖護院に属して、「富士山出仕」の山伏として認められていた。豊臣秀吉は天正十九年(一五九一年)、村山・神成・木切山などで百四十一石を池西坊に安堵し、寛永十八年(一六四一年)には徳川家光から九十五石余の朱印地が与えられた。

登山に訪れた道者は村山の坊に泊まって祓いと祈祷を受け、山伏に導かれて村山口登山道を山頂へ向かった。伊賀など西国から来る道者もいた。登山者は山役銭を納め、大宮以外の登山口では六道銭とも呼ばれたこの役銭が、坊と興法寺を支えた。

明治の神仏分離と修験道の禁止により、池西坊は廃絶した。『浅間神社の歴史』によれば、坊の家は維新後に富士氏を称し、次男が修験を継いで北畠氏を称した。大正十二年(一九二三年)の「村山浅間神社昇格願」も、坊の家は源姓で、明治以後に神職となって「富士」を名乗ったと記す。同じ願書は、貞享年間に池西坊の兼帯住職を命じられた大先達浄蓮院について、その祖を伊勢国司北畠具教の弟・具親の孫と伝えている。昭和十八年(一九四三年)に八十六歳で没した北畠栄鎮法印(浄蓮院)の位牌には「正大先達」と記されている。坊のあった場所は現在、駐車場などの敷地となっている。