沼津日枝神社
静岡県沼津市に鎮座する日枝神社。江戸期以前は「日吉山王社」として記された社で、村山修験が組織的に執行した「富士峯修行(ふじみねしゅぎょう)」において、富士山南麓(表口)の信仰圏で重要な役割を担った社の一つである。
村山三坊(辻之坊・池西坊・大鏡坊)の山伏たちは、旧暦七月十二日に村山を出発し、富士山頂での過酷な入峯修行を経て、八月三日に下山した。下山後は「麓巡り」と呼ばれる行程に入り、山頂から須山口へ下った山伏たちは、金沢(裾野市)での「橋渡作法」、千福(長泉町)の十二所権現、大畑(沼津市)の熊野権現での勤行と宿泊を重ね、八月十五日に沼津の日吉山王社に到着して勤行を行った。翌十六日には吉原を通り、杉田の礼拝石を経て村山へ帰還する。実に二十六日間にわたる長大な修行行程であり、沼津はその締めくくりの直前、霊力を麓に届ける「出口」の役割を果たしていた。
山王の神は、富士山頂の聖域そのものにも組み込まれていた。戦国期の東泉院の記録『富士山大縁起抜書』(永禄三年・一五六〇年)によれば、富士山頂の八つの峰「八葉」のうち第五の峰には「山王大権現」(本地仏は弥勒菩薩)が配されていたという。沼津の日吉山王社に祀られる神が、山頂の曼荼羅的世界の一角を占めていたのであり、この社が富士峯修行の拠点とされたことには、単なる地理上の都合を超えた信仰上の必然があった。
修行者たちが各拠点で行ったのが「札打ち」である。仏名や神号を書いた札に修行者の院号名を記し、社殿や寺院の建物に打ち付けるこの行為は、富士山中で蓄えた霊力を麓の広大な地域に分け与え、その土地を救済・守護する精神的意義を持っていた。沼津の日枝神社はその霊的守護範囲の主要な一角を占めた。
沼津はまた、駿河湾を海路で渡ってきた道者の上陸地としての役割も担っていた。中世から戦国時代にかけて、船で訪れる道者は非常に多く、吉原湊や大岡湊(沼津市付近)に上陸して富士山を目指した。戦国時代の天文二十三年(一五五四年)の史料には、吉原湊に「道者商人問屋」が成立していたことが記されており、海路で到着した登山者の宿や荷物の取次拠点として機能していた。永禄十一年(一五六八年)の今川氏真の判物では、江尻から蒲原にかけての「船関」において、先達に引率された富士参詣の道者の通行税を免除する措置が取られており、沼津・三島周辺を行き交う道者たちが領主権力による組織的な保護と管理の対象であったことがわかる。
沼津の日枝神社は、富士道者にとって富士山へ向かう「入り口」であると同時に、山伏にとって修行の霊力を里に持ち帰る「出口」でもあった。村山修験の組織的修行体系における不可欠な聖地として、富士山頂の神聖な力と麓の人々の暮らしを結びつける役目を、長きにわたって担い続けてきた。

