沼津日枝神社

静岡県沼津市に鎮座する日枝神社。『駿河志料』には「日吉山王社」の名で出てくる。村山(富士宮市)の修験が毎年行った「富士峯修行」で、山伏たちが勤行に立ち寄った社である。

『駿河志料』によると、富士峯修行には村山の別当三坊(大鏡坊・池西坊・辻之坊)とその配下の修験が、毎年交代で入峯した。七月二十二日の早朝に村山を発ち、八月二日まで山中の御室にこもって勤行する。入峯のあいだ、俗人の登山は禁じられた。八月三日に宝永山の東から須山口へ下り、須山村の朝日観音堂で五日間勤行し、愛鷹山で行法を修め、金沢村の浅間社に札を打って泊まる。十日に千福村へ入って十二所権現で四日間勤行し、その間に三島明神にも札を打った。十四日は大畑村の熊野権現に札を打って一泊し、十五日に沼津へ出て日吉山王社で勤行している。

そこから一行は東海道を吉原宿へ移り、富士登山道を上って、杉田村の礼拝石で八大金剛童子を勤行した。その夜は雷村に泊まり、十六日に村山へ帰って先達の坊で作法を済ませ、解散する。修行の日数は二十六日と記されている。

道中の札打ちは、仏名や神号を書いた札に、その年に入峯した行者の院号を書き添えて打ちつけるものだった。沼津の日吉山王社での行は、『駿河志料』では「勤行」と書かれている。

村山では、山王を富士山頂の峰の一つにも配していた。江戸時代後期に村山三坊が出した『富士山開帳御宝録』は、山頂の八つの峰「八葉」のうち五之岳を「山王大権現」(本地は弥勒菩薩)とし、池西坊が出した御札の版木にも「五岳 日吉山王大権現」とある。ただし八葉の峰の名は、時代や登山口によってまちまちだった。

沼津の大岡庄には、天文三年(一五三四)に「上下道者商人宿」があり、山中源三郎が担っていた。吉原湊でも、天文二十三年(一五五四)に今川義元が矢部孫三郎に与えた裁許状に「吉原道者商人問屋」の名が見える。『富士山麓史』は、伊勢船が着いた口野郷江浦(沼津市)の例から、船で来た道者がこうした宿に落ち着き、それから富士山を目指したとみている。

戦国時代には葛山氏広が、今川氏輝の判形にしたがって、この社の神官の地位を保障する文書を出している。社には重要文化財の絵巻『紙本著色山王霊験記』一巻が伝わる。関白藤原師通が日吉山王の神罰を受けた話から始まる、十二紙を継いだ絵巻である。