甲斐国一宮 浅間神社
山梨県笛吹市一宮町一宮に鎮座する浅間神社。甲斐国の一宮として古くから篤い崇敬を集めた古社で、富士山の主神・木花開耶姫命(このはなさくやびめのみこと)を祭神とする。社伝によれば、垂仁天皇八年(紀元前二二年)の鎮座と伝わり、はじめは富士山北麓の山宮神社の地に祀られたものを、貞観七年(八六五年)の富士山貞観大噴火を契機として、現在の鎮座地である笛吹川扇状地の南北端に遷座したとされる。
『延喜式神名帳』(九二七年成立)に記された甲斐国八代郡の名神大社「浅間神社」の有力な比定候補の一つとされ、富士御室浅間神社(河口湖町勝山)・河口浅間神社(河口湖町河口)とともに、古代甲斐の浅間信仰の中心的存在であった。比定論争は今日もなお決着を見ていないが、いずれの説を採っても、本社が古代甲斐における浅間信仰の重要拠点であったことは疑いない。
戦国時代に甲斐を支配した武田氏からは、歴代にわたり極めて篤い崇敬を受けた。武田信虎は社領を寄進し、信玄も北条氏追討の際に「富士浅間大菩薩」へ願文を捧げ、勝利の暁には旧領を復することを誓っている。天文十九年(一五五〇年)には、後奈良天皇が国家安穏を祈って書写した「紺紙金泥般若心経」を、信玄(当時は晴信)が使者となって本社へ奉納した。現在もその包紙には信玄の自筆が残っている。武田勝頼も父の志を継ぎ、社領を安堵する判物(公文書)を発給した。
徳川家康は天正十年(一五八二年)、武田氏滅亡後に甲斐に入ると、本社に社領二〇〇貫文(後に二三四石余)を安堵する朱印状を与えた。歴代将軍も代替わりごとにこれを更新し、幕府の祈願所として保護した。江戸中葉には、社殿の前に巨大な陽茎形の石神(金精神)が祀られるなど、富士講の隆盛と結びついた民間信仰も広がりを見せた。
明治四年(一八七一年)、全国の社格定めに伴い「国幣中社」に列せられた。明治維新の神仏分離により、それまで習合していた仏教的要素は排除されたが、甲斐国一宮としての権威は維持された。毎年四月に行われる「一宮の大祭」や流鏑馬などの神事は今も継承され、地域の信仰の拠点として親しまれている。
写真は晩夏八月の境内。大きな石の鳥居から望む随神門、夏越の祓の茅の輪(ちのわ)、拝殿正面、拝殿内に並ぶ武将らしき肖像と古絵図「西宮中浅間神社之景」、摂社の鳥居、手水舎にかけられた素朴な干支絵の幕。境内のさまざまな景物の中に、二千年余りの祭祀の連続と、戦国・近世・近代を貫いて積み重ねられた人々の祈りの厚みが、静かに息づいている。












