神道扶桑教 富士講祭り
神道扶桑教教団の夏の富士講祭礼。富士山の山開きに呼応して七月に執り行われる「お山開き祭」の風景である。境内の中央に築かれた富士塚(ふじづか)──溶岩を組み上げた人造の小さな富士山──を舞台に、白衣に身を包んだ教師・講員たちが擬似登拝の神事を進めていく。
扶桑教は、明治六年(一八七三年)に宍野半が富士講の諸派を統合して創設した神道教団である。宍野は富士山本宮浅間大社と北口本宮冨士浅間神社の宮司を歴任し、江戸時代以来の富士講を近代神道の枠組みに組み直した中興の祖というべき存在で、富士山頂の天拝所を設け、薬師ヶ嶽を久須志嶽とするなど山中の仏教的地名の改称も主導した。教団は明治十五年(一八八二年)に「扶桑教」として一派独立を果たし、神道十三派の一つに数えられた。
境内の富士塚は、単なる飾り物ではなく、本物の富士山と同等の宗教的位格を与えられた聖域である。江戸期、女人禁制や体力・距離の理由で実際に登山できなかった女性・老人・子供のために、各地の富士講が築き上げたものであった。塚を巡って「六根清浄」を唱えながら登れば、本物の富士山を登頂したのと同じ「現世利益」や「功徳」が得られると信じられてきた。中腹には小御嶽神社や食行身禄が入定した「烏帽子岩」を模した石碑が配され、頂上の祠で富士山の神(浅間大神)や造化三神(造化大神)を拝礼する──一つの小さな塚の中に、富士山全体の信仰構造が凝縮されている。
祭礼で唱えられる神号は「参明藤開山(さんめいとうかいざん)」。日月星の三光と生命の根源が富士山と一体であるという富士講以来の独自の神格表現で、国家安穏・五穀豊穣・家内安全が祈願される。さらに明治以降の神道化に伴い、宇宙の根源神である造化三神(天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神)への崇敬が強調されるようになった。江戸期の富士講の「南無妙法蓮華経」を含む神仏混淆的な唱え言からは離れ、純化された神道祭祀の形式が整えられているが、その精神の核には食行身禄が最期に残した「正直・慈悲・情・不足」の四つの真理がなお宿っている。
写真は二〇二五年七月二十七日の祭礼の様子。教師による法話と祈祷、富士塚を仰ぎ見て拝する講員たち、拝殿前に整えられた笹・供物・案内書き、そして人々が退いた後の富士塚の静かな全景。住宅地に囲まれた境内の一隅で、千年余り続いてきた富士山信仰の系譜が、夏の陽射しの中に確かに息づいている。









