辻之坊墓所

村山三坊の一つ、辻之坊の墓所である。

辻之坊は天文二年(一五三三年)、今川氏輝の判物に「富士山興法寺々務代辻坊」として名が見え、配下の山伏分を含めた神領や参銭を安堵されている。今川氏が村山を支配下に置いた初めの例とされる。天文のころには、村山・木伐山・雷(神成)・粟倉などの地を、池西坊とともに兼帯していた。天文二十年(一五五一年)、辻之坊の跡職を葛山助六郎が譲り受けて今川義元の安堵を受け、以後は葛山氏が継いだ。葛山氏ははじめ代僧に勤行を任せていたが、江戸時代のはじめごろには自ら修験者となったとみられる。坊に伝わった文書は「旧辻坊葛山氏文書」として残る。

三坊のうち辻之坊は、村山浅間神社の浅間社(七社浅間)の別当を務めた。池西坊が大日堂を、大鏡坊が大棟梁権現を受け持ち、祭礼では三坊が助け合ったが、勢力を争って和を欠くこともたびたびあった。辻之坊の下には山伏四人や社人五人などが属し、祭礼のときは歌誦役・射手役・白杖役もその役人が勤めた。坊の屋敷は、登山道の左側にあった。

豊臣秀吉からは七十五石を寄せられ、その地は村山・木切山・神成の内で二十五石ずつだった。寛永十八年(一六四一年)の徳川家光の朱印状は九十四石五斗を与えている。三坊は幕府へ年頭の御礼に出向き、当番の年には二月十五日に江戸城へ登って賀儀を述べた。その間隔は、はじめ三年に一度、享保十七年(一七三二年)からは六年に一度だった。

文政年間に頼儔が没して無住となり、文政十二年(一八二九年)からは江戸大久保の大聖院が兼帯した。大聖院は本山派修験の触頭であった。

いま残るのは墓所である。苔むした石塔が並び、案内板には村山三坊の配置図が記されている。